ロードレースの歴史

ロードレースといっても、自転車で走るサイクルロードレースだ。レベルは、勿論、草レース。ツーリングを楽しんでいた私に、自転車屋の親父が囁いた。「そんなに、自転車が好きなら、一度レースに出てみないか?誰でも、気楽に参加できるよ・・」。そんな言葉に騙されて、大学院2年で初レース。着の身着のまま、レース会場に行けば、そこは別世界。高価なレーサーが並び、いでたちもレーサー仕様。皆が、私の自転車、そして、格好を指差して笑う。完全に騙されたと思ったが、ビギナークラスで開き直って走ってみれば、2位入賞。見知らぬ人からも、祝福されて、私のレース活動はスタートした。それから、結構はまりました。そろそろ走れない体になってしまったが、気持ちは、未だにレーサー。自転車は、サンキュッパ(¥39,800)レベルも含めて、通算で8台目になる。譲ったり、壊れたり、盗まれたりして、手元に残るは1台のみ。そんなロードレースの歴史を、自分のために、まとめてみました。よかったら、ご覧ください。

既に、全ての事項が歴史となりつつあります。ここ数年の軟弱な走りは、こちらです


T期.ビギナー〜勝利を知らない頃(1982年〜1985年)

82年,83年と各2レース,84年は0,85年は3レースと,4年間で7レースしか参加していない。この間の成績は,2,2,2,6,12,2,113位(大落車に巻きこまれ)。本格的にレースに取組んでいる訳でもなく,年に数回のお祭り気分であった。レースの駆け引きも知らずに,無邪気に(がむしゃら)に走っていた頃である。2位は上出来だと思ったのだが,1位以外は2位も最下位も同じであるということが判ってくる。先輩からは,決定力不足と笑われる。85年の最終戦はツール・ド・ジャパン第4戦。このシリーズ初参戦。名前は世界最高のツール・ド・フランスと似ているが,雲泥の差で,市民レーサー向けのレース。年間4戦程度のシリーズ戦。オリベッティがスポンサーで,日刊スポーツ主催で実施されていた。忘れもしない浜名湖ステージ。エントリーは253名,最後尾からのスタート。ゴール前1kmで2位以下の大集団の先頭にいたが,大落車。・・・・・85年9月,86年9月と同大会(シマノ主催、グリーンピア三木ロードレース)で連続2着。(左写真)85年は追いこめず,(中写真)86年は追いこまれた。(右写真)85年,表彰台に上るところ。
85’シマノグリーンピアロード(2着)86’シマノグリーンピアロード(2着)2位はうれし悲し

 

 

U期.ツール・ド・ジャパンに本格参戦,最終戦で初勝利(1986年)

85年は落車で終わり燃えきらなかった。86年はツール・ド・ジャパンシリーズ・一般クラスに全4戦参加(所沢3位、蔵王8位、千葉5位、浜名湖1位)。最終戦の浜名湖は結婚して間もない愛妻の目の前で初優勝でき最高の気分を味わう。年間総合は2位。初戦の所沢ステージは2クラスに分かれてのレースとなり、両方合わせてタイム順でポイント供与となったため、遅い展開のクラスに居た自分は3位ながらほとんどポイントを獲得できなかった。たらればの話ではあるけど、速い展開のクラスに居てポイントを獲得できていたら年間総合1位の可能性もあったかな。この年は他に3戦に参加したので86は7戦参戦(82年から85年の4年間で参加したレースと同数)。
蔵王ステージ(8位) 森口博子さんから賞品を受け取る自分 第2戦の蔵王ステージ、山岳コース。レースクイーンは、機動戦士ガンダムZの後期オープニングテーマ曲「水の星へ愛をこめて」でデビューした森口博子さん。進行はTBSラジオで活躍中の小俣雅子。森口さんから8位の賞品を手渡され握手(右写真)。
ミス静岡よりチャンピオンジャージを受ける 優勝トロフィーと賞状を手に 第4戦の浜名湖ステージ。快心の勝利。ミス静岡からチャンピオンジャージを受ける。
V期.ツール・ド・ジャパンでチャンピオンクラスに参戦(1987年)
一般クラスでの成績によりランクアップしてチャンピオンクラスに参戦。87年から新たに最上位のスーパーチャンピオンクラスが新設されたので新たな目標ができた。全4戦参加(所沢13位、蔵王11位、白浜1位、千葉3位)。前半2戦は自分なりに良い走りが出来たものの入賞できず上位クラスの壁を味わったけど第3戦で優勝、最終戦も3位でゴール。2年連続で年間総合2位。翌年はいよいよスーパーチャンピオンクラスだ。
(左)白浜ステージ(和歌山)での優勝時のゴールシーン。9月6日だが,気温31℃。暑い戦いだった。2位は銀山さん。自分は金子。金銀コンビの誕生。その後も、二人でよく争ったものだ。右端の写真は、名取CSC(宮城)での東北GPかな?・・惜しくも2位。
白浜ステージで優勝 表彰式 表彰式 東北GPにて2位でした

 

 

 

W期.ツール・ド・ジャパンでスーパーチャンピオンクラスに参戦(1988年〜1990年)

チャンピオンクラスでの成績により,ランクアップしてスーパーチャンピオンクラスに参戦。いよいよ,市民レーサー最高のクラスだ。このクラスでは,3年間。
88年,初戦でいきなり5位入賞。しかし,その後は,13位,大落車,13位と,今一つ。初回の入賞により,次年度もスーパーチャンピオンクラスに残留できた。
コーナリング(先頭が自分) 初戦4位,日産フェアレディから賞品受け取る

 

 

 

89年,初戦の昭和記念公園ステージで,優勝。最高の時である。NHKの全国放送(スポーツ枠)でも取り上げられた。2戦の蔵王(18位),3戦の白浜(台風直撃で中止)。
最高のお立ち台ゴールの瞬間(本当に優勝なの?)日刊スポーツに載る

 

 

89年の最終戦(東村山ステージ)は盛り上がる。スーパーチャンピオンの年間優勝者は,ハワイのレースに派遣される。また,イタリアから招待したモゼール選手とTT対決ができる。レース前,可能性のある自分にも,TV東京のインタビュー。インタビュアーは,競輪でおなじみの,したらじゅんこさん。結果は13位と,届かなかった。放送分はあっという間だが、優勝したレースのゴールシーンが映り、自分にとってはお宝映像となっている。
したらじゅんこさんにインタビューされるしたらさんって,がに股だったのだろうか?体には悪いけど,レース後のビールは最高

 

 

90年も,前年の成績で,スーパーチャンピオンクラスに残留。しかし,初戦(名古屋)で,ゴール前の最終コーナーで前輪バーストで大落車で37位2戦の山岳ステージ(蔵王)は,風邪で欠席3戦の白浜ステージは,2年連続の台風直撃で中止(2年連続)最終戦の昭和記念公園ステージも37位とふるわず。結局,入賞がないため,スーパーチャンピオンクラスから脱落。何かとついていないこの年は,年間3レースのみ。左は,2人チームで参加する秩父宮杯自転車競走(カネコイングスCで4位)。
秩父宮杯(チームで4位)
X期.小休止(1991年)
91年は,体調が優れず,昨年までの気合が入らず,燃え尽き症候群。ツールへの参戦は見合わせ,単発で年間5戦を消化。パナソニックカップ(群馬CSC)のパナソニックの部と東北GPのエキスパートの部で2勝するも,盛り上がらず
この頃の自転車

 

Y期.出直しから復活の兆し(1992年〜1994年)・・3年間で37戦9勝。

92年は,心機一転,出なおしの年。ツールは年間2戦に縮小。年間14戦に参戦。93年は,チャンピオンクラスなどにも参戦し,年間12戦に参戦。2勝。94年は11戦に参戦。3年間で37戦し9勝をゲット。
丸石ロード(アダルト),西湖(一般),ツール第2戦(一般)で3勝。ツールでは,初のスプリント賞と年間ポイント1位も取得。シマノは,グリーンピア三木から鈴鹿サーキットに会場変更で,土日の2戦(インターミディエイト)に参戦,いずれも2位となる(シマノのレースでは,どうしても勝てない)。丸石は,この後3連覇。西湖は,この後2連覇西湖の3連覇をかけたレースでは,優勝者にイタリア行きの航空券が特別賞として設定された。体調万全でレース展開も思うように進み、ゴール手前700mのなだらかな上りで先頭に立った自分は優勝を確信した。このまま、ゴールまで突っ走れば良かったのだが、魔がさしたのか、一瞬、後続集団を振り返って見てしまった。それも、普通なら右から見るところを、左から見てしまった。その隙に、死角となった右端から飛び出したO選手。再び、前方を見た時には、自分より10m前にいた。必死で追い上げたが、もう少しのところでゴールライン、2位でのゴールだった。あと10mあれば抜き返せるペースだっただけに、最高に悔いの残るレースとなった。まあ、賞品がかかると,勝てないという性格のもろさが露呈したのかもしれない。
92ツール,年間優勝ゲット丸石ロードは3連覇ゴールシーン(丸石,初V)

 

 

94年は,4勝。一般クラスへの参加が多いが,9戦でお立ち台(1位・・4回,2位・・3回,3位・・2回),残りも4位と6位と入賞し,絶好調。またしても,シマノの2戦で連続2位。これで,シマノ関係で6回目の2位。どうしても勝てない。最もうれしかったのは,泉崎ロード。一般Dクラスで優勝,その後,一般の各クラスから上位20名を集めてスーパー一般クラスのレースが行われ,そこで優勝できたこと。
初戦,外勢さんに届かずまだ,余裕のコメントレースレポートでこんな見出しにされてしまった言い訳をする(でも本当)2戦目,ゴールラインを勘違いし足を止めて2位
シマノのお立ち台(どうしても2位)優勝は森田さん,左が自分レース途中のスナップ外勢さんのお子さん達と
完敗でした最も勝利に近かったレース
94ツール初戦は6位三陸ロード,初V先頭でコーナーに突っ込む(西湖)
左は,92年と93年の秩父宮杯。チーム参加で4位と3位。
92年秩父宮杯(チームで4位)93年秩父宮杯(チームで3位)94年、丸石ロード(チームロード)

 

Z期.自転車通勤できなくなりピンチ,そして故障連発(1995年〜1997年)
94年10月に勤務地が変更になり,入社以来続けていた自転車通勤ができなくなる半年の間に猛烈に太るもともと練習不足であったため,まともにレースに参加できる体調にならず,95年はレース活動なし。このままでは,終わってしまうと,96年には,10戦に参加。シマノでは,この体調にもかかわらず,最上位クラスへの参戦を余儀なくされ,トップ集団から切れる101位という最悪の結果。かみさんから引退勧告が出る。やばしと臨んだ,ツール第2戦で,ぼろぼろながら,経験で優勝ゲット。首の皮一枚で,残る。しかし,体重増と練習不足のせいか,レースとは関係ない運動会でハッスルし最後の最後で肉離れ。後半戦を欠席。97年は,珍しく燃えて,1月2月のJCRCに参戦。ロードの結果は,落車に阻まれ,今一つだったが,同時開催のTT(1.5km)で良い走りができて,これからという時に,肉離れ再発。その後も再々発し,3月以降のレース活動を休止する。体の鍛え直しが必要とスポーツジムに通いはじめる。筋力,持久力,ウェイトの面でもかなりの効果を確認できるまでにいたったが,またまた秋の運動会で反対側の足を肉離れ年齢的なものもあるが,体重増加&運動不足が,度重なる故障の原因だろう)。そして11月末には,白河への引越しで通い慣れたジムともさよなら。
[期.おっかなびっくり,レース活動再開(1998年8月〜)
97年12月から白河の生活が始まったが,98年3月までは,寒さで外で自転車を乗る気にもならず。ようやっと,春になり休日など乗り始める。冬を除けば,練習コースに恵まれている。新幹線通勤と冬の間の運動不足などで体重はさらに増える。とてもレースに出れる状態ではない。
8月末のシマノ鈴鹿ロードに家族で参加することを目標に設定した。久しぶりのレースでおっかなびっくりだが、運命の悪戯か信じられない5位入賞。気を良くして望んだ2レース目は,ゴール前で良い感じだったので、いけるかもと思ったが、そうは問屋がおろさず、落車でアウト。急にレースへの想いがよみがえり,9月には東北の2レースに参加。マイナー大会だが,泉パークタウンのレース(ヤングU)で,久しぶりの勝利
鈴鹿サーキット(98年夏)長女の初レース

 

白河豪雨
鈴鹿ロードに出発する前日はお休みだったが、夜から朝方まで、ずっと雷を伴う豪雨。前日も、坂の中腹で水が出る騒ぎがあった。出発当日は、東北自動車道が通行止め。国道4号線も通行止め。どんな時も、自分が行きたい一心で敢行する自分だが、この時ばかりは、やめようかと家族に言った。しかし、クラスの仲間にレース参戦の話をし応援されてきた子供達は、どうしても行きたいという(遊園地無料招待にも惹かれていたのだろうが・・)。家内も、そんな子供達にほだされて、珍しく、何とかして行こうと主張する。そこで、一旦、北上し、磐越→常磐自動車道というルートを通り、大雨の中、何とか鈴鹿までたどり着いた。約850km、13時間の行程だった。レースは土・日で、鈴鹿は最高の天気に恵まれた。遊園地、花火を楽しみ、ホテルに戻り、ニュースを見ると、那須・白河の水害のニュースが繰り返し放送されていた。これを見て心配になり、日曜日は、予定を繰上げて、帰路につくが、東名の御殿場で足止めになり、急遽、宿探し。恐くなるほどの雨であった。翌日4AM頃、一時的に通行止めが解除という情報をニュースで聞き、出発。何とか白河まで帰りついた。留守にしていた自宅の留守電には、ニュースをみて心配した、身内・知り合いなどから十本以上の電話が入っていた。連絡がつかないので、皆、心配していたようだ。そんな時に、鈴鹿でレースを楽しんでいた、脳天気な家族、それが我が家である。
\期.2000年に向けて親父パワーを発揮できるか?
いまや、思いでのコーナーになりつつある99年は、1度もレースに出なかった。このまま、終わるのか?
2000/5/3(水)に、シマノもてぎロードレース大会が開催される。これをターゲットに準備をするか。1昨年の鈴鹿のように、娘、息子と3人で参加できれば、ベストなのだが。

2階のフリースペースの一角には、チャンピオンジャージ、トロフィー、ゴールの写真などを置いているが、思いでのコーナーになりつつある。このままでは、いけないと思いつつ、時間だけが過ぎていく。

通算103レースの詳細はこちらです(年度別ページは作成中)

(痛い)落車の歴史はこちらです・・ぞくぞくしてみたい人向き?

フレーム1/2 フレーム2/2 自転車各部の写真

番外編:家内の名前違いを払拭するまでの歴史(笑)
1986年12月8日:ツール・ド・ジャパン、一般Bクラス、第4戦(浜名湖ステージ)

愛妻を連れてのレースで初優勝。

翌日、新聞でリザルトを確認すると、信じられない事に、愛妻の名前が、間違っている

赤丸の「ふ」は後から貼ったもの。その下は、「す」となっていた。

「ふ」→「す」だと、二人にとっては、ちょっと問題のある名前。家内、ちょっと落ち込む・・

1987年9月7日:ツール・ド・ジャパン、チャンピオンクラス、第3戦(白浜ステージ)

前年の苦い思い出があるだけに、記者には念押し。

今回は、間違わなかった(ほっ)

1989年6月5日:ツール・ド・ジャパン、スーパーチャンピオンクラス、第1戦(昭和記念公園ステージ)

今回も、間違わなかった。娘の名前も○。これで、悪い思い出は、払拭できたかな(笑)。

1996年9月9日:ツール・ド・ジャパン、B1クラス(下総公園ステージ)

「かみさん」・・これなら無難だよな(笑)。